眼科医として歩んできた半生
ライター:馬詰 良比古
今年、私が開業医になって38年を迎えました。この機会に眼科医として歩んできた自分の半生を振り返ってみたいと思います。
研修医時代
私は1976年3月に杏林大学医学部を卒業し、5月に母校の眼科学教室に入局しました。研修医として2年勤務し、眼科の初歩的な知識・技術を学びました。
その後、大分県立病院に赴任し、他大学の先輩医師から厳しく指導を受けました。大分で過ごした1年2か月は、短いながらも大変充実した時間でした。
通常の3倍とも思えるほど多くの臨床経験を積むことができ、眼科医としての自分の診療の幅と深さを成長させてくださったと実感しました。
再び母校、杏林大学へ
杏林大学に帰局してからは医局長を務めました。
最初の仕事は後輩たちの生活が経済的に成り立つよう、アルバイト先を探すことでした。
知り合いの開業医やコンタクトレンズクリニックなどに医局員を派遣して、経済的に自立ができるように取り計らいました。
私自分の仕事は臨床を第一としながら、第二に医学博士を取得するために研究にも取り組みました。研究テーマは「虹彩の創傷治癒過程を電子顕微鏡的に観察する」というものでした。
2年以上にわたる研究生活でしたが、大変充実した日々でした。思い返せば私にとって最も幸せな時期のひとつだったかもしれません。研究に勤しんだおかげで博士論文が認められ、医学博士号を取得することができました。
このまま研究者の道へ進もうかと迷ったことも、今では懐かしく思い出されます。
また、この頃に一緒に研究をしていた後輩たちが開業後の戦力として力強く支えてくれました。
医局長として、教室員の人事異動をはじめとするさまざまな雑事をこなし、また臨床医として研鑽を重ねる日々の中で、私は手術を行うことに大きなやりがいを感じるようになりました。そんな折、大学から有給医員の削減を突然言い渡され、人事異動により私が阿伎留病院(現:公立阿伎留医療センター)に赴任することになりました。
阿伎留病院 時代
阿伎留病院では、当時まだ草創期にあった眼内レンズを用いた手術をいち早く取り入れました。これが多くの患者さんから好評を呼び、眼科の収益は院内トップになりました。外来も賑わい、後輩医師も招聘し、活気あふれる眼科に成長していきました。
しかし、どれだけ実績をあげて稼いでも、眼科は病院から重要視されず、検査や治療に必要な機器の購入も思うようにかないませんでした。忸怩たる思いが続き、「それならば独立して、思うがまま自分の理想とする眼科医院を作ってやろう」と決意しました。
そして、馬詰眼科開院
そして1989年2月1日、馬詰眼科を開院しました。
勤務医時代から西多摩地域の眼科医療情勢は熟知していましたので、「私が開院すれば、すぐに地域で一番の眼科になれる!」と、うぬぼれて自信過剰になっていました。
ところが、ありがたいことに開院から半年ほどで本当に多くの患者さんにお越しいただけるようになり、「地域で一番の眼科」だと自負できるようになってしまったのです。当時は自分の知識と技術があれば当然!と思っていましたが、今思い返すと汗顔の至りです。
開院して間もなく、今も馬詰眼科を支えてくれている宮﨑美子先生が診療に加わり、さらに眼科は賑やかになっていきました。手術の日には宿直で医院に泊まり込み、入院された患者さんの朝食を用意したり、手術の映像のビデオを患者さんと一緒に観たりしたことがとても楽しかったです。疲れを知らない楽しい毎日でした。医療設備も整えることはもちろん、職員の待遇についても地域で一番の医院を目指してきました。今ではその目標をほぼ実現できたのではないかと思っています。
私は父の医院を継承せず、自らの医院を開き独立する道を選びました。
「あんな小さな医院では俺は活躍できない!」と考えていたのです。あの時の父の寂しさを今になってようやく理解できるようになりました。
幸いにも、私は息子たちという後継者に恵まれました。馬詰眼科はその歩みを受け継ぎ、今も大きく飛躍しています。
「次の世代が、跡を継ぐ価値があると思える馬詰眼科を創り上げること」
それは開院以来の私の大きな目標の一つでした。今、それは達成できたと思っています。
これは眼科を支えてくれた家族と職員、そして馬詰眼科に信頼を寄せてくれた患者の皆様のおかげと、深く感謝申し上げたい気持ちです。
私は自分の衰えを自覚しています。
皆さまと診療を通じてお会いできる時間も限られてきましたが、まだまだお世話になります。
これまで支えてくださったすべての皆様、本当にありがとうございます。
すべてのことに心より感謝申し上げます。
